「他者」の起源 よんだ


こんにちは

こんにちは、fymartymです。
今朝はTwitterのリストを眺めていたら、こんな記事を見かけました:

これをきっかけに、少し気分が落ち込んだのですが……まずは今回読んだ本の所感から。

「他者」の起源 ノーベル賞作家のハーバード連続講演録

読み始めのすぐに、「ああこれ読むの難しいな」と思った。というのも本編の前に、筆者のものとは違う長めの文章が用意されている。しかも、2人分。さらに読みにくさを加速させたのは、註記がページの端や章末ではなく、巻末にすべてまとめられていたことだ。わからない人名が出てきたときに都度巻末をめくったり、別途なんらかの端末で調べるというのは負担だった。もしも平易な文章や自分が分野に明るければ、そのような調査の作業を挟んでも集中力を保てたかもしれないが、そもそも第一印象として「これは難しい」の感覚を抱いている中で、単に読む(というより、必死で文字を追う)こととは別の作業を同時に並行して行うのは困難だ。そのため、わからないことは無視して無心で文字を追いかけた。理解が追いつかなくてもそれを置いて、先に進むことで視界が開けることもあるかも、と思って読み進めた。そして、この大きな壁を乗り越えてようやく本編に入ると、少しずつ興味を取り戻すことができた。

本書を読む……というか語るにあたっては筆者の人となりなどの背景が割と重要な気もするが、私はなにぶん浅学なので事前知識はまったくない状態だ。読み進めていく中で入ってきた情報としては、このトニ・モリスンは作家であり、彼女の作品自体、この命題に関係性が強いものである。それがために、おそらくその作品の中の場面の切り取りと思われる内容の提示と、それに関する解説が並べられて論じられることも多々あった(……と思う。その理解で正しいのかどうか自信を持てない。正しく読めている自信がない)。

この本の中では、文献・文学作品や実際の事件からいかに「他者化」が行われてきたかをさらいつつ、人種差別への批判が書き出されている。文学や芸術にイデオロギーを持ち込むのは果たして、と思わないでもなかったが、読んでいくとなるほどと思わされるところがあった。特に印象的だったのは、第二章終盤で筆者が自己批判をしている、筆者自身の実体験から「他者化」のプロセスを紐解くことに試みている部分。例えば以下のような記述には自分も覚えがある:

奇妙な身なりの女の釣り人をわたしがたちまち受け入れたのも、わたしが想像する、その人のもとになったイメージのせいなのだ。わたしは、ただちにその人を感傷的に描き出し、不当に私物化してしまった。

次に私が興味深く感じたのは第四章の中で語られる黒人リンチ、その具体的な事件についてだ。書かれている通りであればあまりにもひどいのでwikiなどに事件としてページが作られているだろうと思ったが、探し方が悪いのか見つからない。引用はしないが、この本の中では86-87ページにあたる。この短い文字数で、恐ろしい蛮行について淡々と記述してある。それから、いくつかの黒人リンチ事件について、リストされてある。

第六章はいよいよ難解だったので、特段の感想もないが、教養なき自分への戒めとして記しておく。

最後に、訳者あとがき。
ここでも興味深い話が書かれている。アメリカのオバマ前大統領についての記述だ。彼は確かにアメリカ初の黒人大統領であったが、しかしそれは本書で描かれてきたようなアメリカの黒人とは少し違う背景をもっていた。そのこともあり、アメリカの黒人社会も一枚岩ではない、と記されている。
加えてもうひとつ興味深かったのは、1922年の最高裁の判例について。日系人一世の帰化申請が却下されたという話だ。当時の帰化法では、帰化を認める対象として「自由白人」「アフリカ系の人びとの子孫」のみが定められていたという。つまり、アメリカ合衆国において語られる人種問題は、ほとんどの場合白人と黒人のことでしかなかったということがうかがえる。

望んでいたもの

私が駅改札の中の本屋でこのタイトルを目にして購入を決めたのは、他者化を克服する術を知りたかったからだ。読了してみて、少なくとも私にとってはその期待を満たす内容ではなかった。むしろ私がもっとも恐れていた、みずからの情けなさの証左を突きつけられているような苦しさ、また、常々感じていたことに関する的確な表現に対する強い共感・納得による停滞感をもたらした。

第二章で語られていたような筆者の自戒は私の毎日に当てはまる。ほかの人間に対し、それがプラスのイメージであれマイナスのイメージであれ、自分の中で勝手な像を作り上げている。そしてその人間が自分の描いていたイメージから逸脱すると、途端に感情を取り乱す。他人への過度な期待や過度な侮りの、なんと馬鹿らしいことだろうか。みずからの中で他人の人格を冒涜した挙句、そのことが結果的に自分の精神を蝕んでいくのである。それを私はどうにかしたいと思うのだ。

一方で私は他人から勝手なイメージを作られるとしたら、それを苦に思わないところがある。何かしらの感慨を抱かれること自体が奇跡のようだし、その像に近づける・あるいは遠ざかる努力をすることは楽しそうなことのようにさえ思える。それはきっと、自分自身がないせいだと思う。私はいつでも自分の考えを正しいと思えずにいるし、だからこそ共感性の高いコンテンツに触れることを恐ろしく感じる。そして、自分の考えを正しいと思えるようになるために、今のままではいけないと考えている。それもあって無理して本を読んだりしているのである。

なぜ自分のことを正しいと認められないのか? 自分の中には、過去に言われたものとして、鮮明に残っている言葉がある。「お前がいくら自分で頑張ったと思っていても、他の人からそう見えなかったら頑張っていないのと同じだ」というようなものだ。これは中学生の時に、体育担当の女性教師に言われたことであり、一言一句このままとは言わないが、その内容であったということをはっきりと覚えている。私のような陰キャは、そもそも体育教師というような人間のことを嫌っているので(逆もしかりであろう)、言われた当時はうぜ〜な程度の感想しか抱かなかったはずだし、今ここに及んで「あの時の教師の言葉のせいで私の情緒がおかしくなったのだ!」などと主張する気もない。けれどこの言葉が、この価値観が、いつからそうなってしまったかは知らないが、今の私にはすっかり受け入れられる考え方になっているのだ。「私の価値」は私ひとりだけでは算出できず、私以外の他者が制定するものだ。価値あると思われて初めて価値を得るのである。

当然、不健全である。その自覚がありつつも、この考え方でない人間に対して「傲慢だ」か、それかもしくは「本当に立派だから、私のような人間と考えを異にするのも当然だ」のような感慨を抱くのである。大変に、不健全である。よって克服せねばならない。知識を得て、努力することを覚え、実践し、いつか自分自身を認めてやらねばならない。そうでなければ永遠にずっとこのままだ。その術を私はまだ見つけていない。

私は悲劇を求めている

今日の日記の冒頭で紹介したのは、日本では1月に公開されるという映画リチャード・ジュエルの記事だ。

アトランタオリンピックでの爆破事件をもとにしているらしい。それで、その事件を知らなかったので、今朝は電車でwikipediaを眺めていた。wikiでは、このような記述がある:

大会7日目の27日午前1時20分頃(現地時間)に、オリンピック公園の屋外コンサート会場で爆破事件が発生し、2名が死亡、111名が負傷し、ミュンヘンオリンピック事件以来の大惨事となった。

ここにおいて、 ミュンヘンオリンピック事件以来の大惨事 というところが気になった。ミュンヘンオリンピックでもひどい事件があったのかと、さらにこのページを辿った。それがミュンヘンオリンピック事件である。このページを読んでいて、とにかく悲しくなった。でもその悲しみは、一刻も早く目を背けたくなるような嫌悪感からなるものではなかった。時系列に沿って淡々と記述される事象に対して寂しさを覚えるような悲しみであった。この背景をもっと知りたくなるという、そんな風な。

人間が死ぬということに関して、たとえばこれまでに何度か戦争映画を観てきた。しかし、映画という枠組みの中で物語として表出される限り、それはどうしようもなくエンターテインメントだった。何かにスポットライトが当てられて、そのヒロイズムが強調される。今回読んだ「他者」の起源でも、 ロマンス化 と形容される文学的手法について語られている。本の中では奴隷制度に関する言及であるが、忌避すべき恐ろしいもの・野蛮なものについていやにセンチメンタルに描き出し、恐怖を軽減する作用をもたらすものだ。
しかし、エンターテインメントは楽しい。その中に悲劇が含まれていると、なお楽しさが増す。ヒロイズムの脚色がもう一方の正義を覆い隠すとしても、その真実を一生知り得ることがないとしても。知らないことが罪だとして、知っていると楽しめないのなら、それは自分にとって「正しいから(理性的な人間であれることが)幸せ」なのか? それとも、「楽しめないから不幸せ」なのか。一体どの気持ちを大切にすべきなのだろうか。こうすれば正しいと思ってもらえそうだというもっともらしい言説を纏って、自分の本心を押さえ込むべきか? しかし、自分の思う「もっともらしい言説」は果たして本当に「もっともらしい」のか? いつだって正しくないのに? それなら、自分の本心がどれだけ醜悪なものでも、そこに至るまでの思考プロセスを実際に踏んだものを尊重したほうがよっぽどましに思える——本当に? 考えをもつこと自体、間違ってるんじゃないだろうな。