「教育格差」よんだ


こんにちは、fymartymです。11月中旬〜下旬くらいにちくま新書の教育格差を買って、ようやく今日読み終えました。読み終えましたと言うには理解は足りないかもしれません。移動中とか昼飯食べながらとかに読んでいたのですが、正確に意味をとらえようとするとなんども同じところをじっと読むことになってしまい、最後の方は半ば諦めてとにかくざっと目を通そう……という感じになってしまいました。なんというか、データを見るのがすごく苦手なんですよね。しかもこれはデータを整理したり分析した結果を記載してくれているわけですが、そういうことを理解する力があまりなく。

インターネット越しでなくfymartymを知っている人はご存知かもしれませんが、教育ということでいうと私は頭が悪く、いわゆる低学歴です。学部卒ですが、底辺私大と言っていい偏差値です。ググったら35とか出たし。とはいえそこに通っていた先輩同輩後輩諸氏をも貶めるつもりはまったくなく、そこを弁護するとすれば、私の出身大学は「やりたいことに特化した学部」というのが特色なのであって、目的意識を持つ研究に専念したい学生たちのための環境の整備があり、卒業生や在学生にはそれぞれの道で優秀な人がいるものと思っています。ただ、目的のない人間にとっては堕落を加速させる環境でしかなく、たとえば専門性に特化しない分野におけるハードルの低い講義や試験で単位と好成績を取得することはそれほど難しくないわけです。さらに人によっては好成績で修了することに価値を置かない場合もあるでしょうから、この環境で過ごすことはさらに簡単になる場合があります。そもそもここにおける好成績がその人間の技術や能力に比例しているわけでもないので、人間の心情としてはそこに価値をおかない選択をすることに対して全面的な批判をすることもできないと思います。少し話が逸れましたが、何が言いたかったのかと言うと、底辺私大にももちろん優秀な人がまったくいないということではないと思うけれども、私はその中の王道を辿ったであろう頭の悪い人である、ということです。まあ自虐的にそう言ったところで、これから好き勝手に書く読書感想文の内容が的外れである場合に、その学のなさが免罪符にできるわけではないけど……。

というわけで読むのに難儀していたのですが。

内容振り返り

副題にある「階層・地域・学歴」の観点で、各人が受ける教育の質量には格差があるということを様々なデータと共に提示している本です。

生まれの格差

両親の最終学歴や出身地域によって格差があるという話。第一章のなかで印象深いのは「御破算上昇分析」という言葉で、高ランクではない高校から上位大学卒になった群の出身階層が高いとする2000年の分析だそうです。要するに、不利な状況から努力でもって上昇できるというのも特定の層に限られたことだとして、現代の教育システムでは全ての人間が同条件で挑戦できるなどというのが幻想であり、有利不利が明らかで、事実として格差が存在するのだと指摘しています。p70ではそのことについて、こんな風に書かれている:

「制度上は可能」であるとか「誰にでも機会は開かれている」という言葉は「(可能なのだから後は)本人(の能力と努力)次第」というメッセージを含意するが、実際に「上昇」した個人の出身家庭は恵まれた階層に大きく偏っているのが現実である。

わたくし生まれには恵まれているものですから、刺さりますね。

地域という観点では、周辺に住む人々の平均的な行動が「ふつう」となるわけで、例えば通塾率の高い地域に住んでいれば「じゃあうちの子も行っとくか」みたいになるよね、というようにその場所の特性によって行動指針が左右されるだろうということが書かれている。

第二章では、家庭の教育方針によって幼児期の過ごし方に差がつくことが指摘されている。方針は、「意図的養育」と「放任的養育」の二つに大別できて、具体的には叱咤する際の説明の有無であったり、生活リズム(テレビ見る時間の制限とか、寝る時間とか)への指示の有無、習い事の有無などの干渉度合いの差を表している。たとえば「いくつか習い事をして規則正しい寝食を行い、食事の時には家族と今日の出来事を会話するような子」と、「好きなだけテレビを見ることができ、特になにも指示されず自由に過ごす子」ではこの時期に獲得できる思考力や自制心、コミュ力に大きく差がつくという。そしてこの教育方針について、親の最終学歴と相関がある、ということが示される。意図的養育を行う群は両親が大卒である率が高いし、放任的養育を行う群はその逆なのだ。

学校間の格差

第三章では小学校時期に出てくる格差について指摘される。特に学校間の格差が指摘されていて、先に書いている地域の観点と類似があるが、何が「ふつう」なのかは環境に左右されてしまう。通塾率や習い事の参加率、とある学校では当たり前のことでも、他の学校ではそうではない場合がある。両親が大卒である人・片方だけそうである人・両親ともそうでない人、という学歴が全地域に等しく分布されているわけでもないので、ここでも地域格差が効いてくる。また、親が学校行事に顔を出す割合に関しても、両親の大卒割合が高いほど高くなる、という相関がある。学校行事への参加率、これも教育方針に関して干渉的であるかどうかの指標といえそう。

でも、個人の感想としては、いい歳してこんなこと言いたくもないのだが、親からは「同じ価値観になるように育ててきたのに」のような言葉で批難されるこの自分が、模範的な両親大卒環境に最適化されて育ったかどうか甚だ疑問だ。スタートラインは確かに有利な位置に引かれていたかもしれないが、その思惑通りに行動する・できるかどうかの要因は家庭の環境だけでなく資質の問題でもあるはずだ。すべてひっくるめて地域格差に帰結するのかもしれないが、「ふつう」に倣うかどうかも、幼児期はともかく小学生にもなれば本人の性格的な問題に左右されるのではなかろうか?

あと親の学校行事への参与に関してなんとなく思うのは、忙しさ度合いにもよりそうだなとちょっと思った。私の父親は不動産営業マンで土曜日は休みがとれなかったりしていたので、基本的にこれに何かということはなかったが(運動会延期とかで水曜になると来れてた、とかがあったかも)、母の方は専業主婦だったこともあってまあほとんどの学校行事には参加して頂いていた。これからは働き方も多様になってくると思うけれど、なんとなく今の私のレガシーな価値観からすると、「(この本で言うところの)大卒=エリート=働きマン=休みとれねぇ」みたいな等式が思い浮かんでしまう。なんか漫画のネグレクト描写とかでも、両親が忙しくて構ってもらえずグレる……みたいなのあるあるだし。しかしデータとしてそういう傾向がないということは、創作は奇ということなんでしょうか。どちらかというと「貧乏暇なし」をイメージした方が正しいのかな。「非大卒=経済的弱者=激務」みたいなことだろうか。

この辺り読んでいて辛いのはまさに自分が失敗作だなと思い知らされるからかもしれない。別に私一人で完結している人生なら、どうであっても構いはしないのだ。でも、私はどうあがいても両親から成っているのであって、作り手からすれば何かしらの期待があるのだろうし、そしてこの本でいうところの大卒両親であるからにはその期待が高尚なものである可能性が高いわけである。それがどうしてこれに? せっかく頑張って生きてきた人生の中で、様々な期待を反映したかったであろう創造物がこれなのだ。それを考えるにつけ、申し訳ないというか、気の毒というか、形容しがたい気持ちにさせられる。いやほんと、いい歳してそんな風に考えてしまうこともとても恥ずかしいしね。まあ、恵まれた環境の中にあっても、こんなふうに自分自身の性質が起因して成功体験に乏しいということがあるんじゃないかと思います。性質を作り上げるのが環境なんだよ、ということはあるかもしれませんが、無数の選択肢を与えられた中で「自己決定の上で堕落する」選択をした人間だって、少なくないんじゃないですかね。そういう愚かな人が読むと心が痛い本であることは間違いない。ちょっとあれを思い出しますね、平成31年度東京大学学部入学式 祝辞『そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。』 教育格差やこの祝辞にふれてどうして胸を痛めるのか、想定読者を考えるとすると、「自分がここまでこれたのは環境という心強い支援があったからだ、それがないために諦めざるを得なかった人やそもそも選択肢として自覚しなかった人が多数いて、その上に自分が立っているのだ」というなかなか認めたくない事実の自覚で、ということなのだろうけれど。

さて、本の話に戻ると、第四章では中学校における格差にふれる。小学校のころから少しずつ積み重なってきたその「差」が徐々に拡大していく。例えば、学校外の学習時間は実際に数字としてあらわれてくる。そして学習成果の結実は見えない格差として顕在化することになる。具体的にどういうことかというと、義務教育において授業のレベルが平易なものであれば、能力差があることは見つかりにくい。こういった格差は小学校の時にはそれほど目立たないのだが、高校受験という「選抜」を控える中学生になるとわかりやすく表面化してくるという。ここでみられる格差の要因は、例えば両親の大卒割合であれば、学力そのものの格差や、そもそも受験を選択するのかどうか−−教育のゴールに大学を見据えるという進学期待格差。受験を見据えた通塾率と年間の学習時間の格差。地域の要素も加えると、私立中学進学者の割合は「三大都市圏」の両親大卒層が多い。学校間にも格差があり、両親大卒生徒の割合が異なる学校では「ふつう」が指す実際の状況は異なるし、「みんなが当たり前に通塾している」かどうかは学校によって一概にそうであるとはいえない、など。

第五章では舞台を高校に移すが、これまでにふれたように義務教育の間で生まれによる格差があるため、「選抜結果」である高校では、似た出自の集団が集まりやすくなるという。そうするとそこには帰属意識が芽生え、学校間の格差が目立ち始めるのである。高ランクの高校に通う生徒の大半は四年生大学以上への進学を希望するし、そのための学習意欲という熱も高まる。低ランクの高校ではむしろ勉強しないことこそが「ふつう」であり、勉強以外のこと(アルバイトやゲーム、友人との交際)に割く時間に関しては、高ランク高校の人々とは違った規範があることが観測される。

格差、国際比較

教育格差を国際的にみたときにどうなのか、第六章では比較にいたり、日本は特別なことのない「凡庸な教育格差社会」であることが指摘される。要するに、生まれによる格差がふつうにあって、他所とくらべて極端にひどいとか優れているとかいうことはないようだ。どこの国においても、親が高学歴の子は自身も高い学歴を得やすいし、それによって高い収入を得る傾向にある。学歴が社会経済的格差に繋がるのである。

義務教育においては、日本は国際的にはかなり「平等的」であると評価されているらしい。これまでに教育にどれだけ熱を上げているのかの地域格差の話はあったものの、大方針として存在する学習指導要領のおかげで、義務教育中には日本のどこに住んでいても学ぶ内容やゴールは同一であり、標準化されている。ちなみに、学校によって時間を支配されなくなる夏休みには、家庭の教育方針が生活に反映されてしまうために格差が広がるらしい。

この国際的に「平等」と評される日本の義務教育は、教育政策の成功の現れということでもない。国としての性質が大きく影響を与えていると考えられる。日本は他国と比較すると通学者の移民割合も低いし、母国語は日本語ただひとつだけだ。教育を実践する上での負荷が低いのである。環境からして他国にアドバンテージがあるといえる。それであるにも関わらず、学校外の学習量の差が他国と同程度の「凡庸な教育格差社会」であることが注目される。

そして義務教育では平等だった日本の教育方針は、高校に差し掛かると「効率重視」に切り替わっていく。学校内の格差は目立たず、学校間の格差が顕著となる。低ランク高校の生徒は無学習が規範となっていて、その教員も彼らに学業達成を期待していないというデータがある。「底辺校」というのは日本ではそういうものとして存在していて誰も疑問を持たないが、この高校における階層構造、偏差値ランキングというようなものが意図的に学力の低い生徒を集めた高校を作っているし、しかも学業に関して諦められた存在になってしまっている。教育制度ということを考えた時に、リソースの配分も含めてかなり異様な状態であるということが指摘されている。

問題をどう解決したらいいのか

第七章、p256での「そうだよ、だから読むのしんどかったよ」と言いたくなる一節:

教育は誰もが何らかの実体験を持っているので自説を持ちやすい。どんな見解であったとしても白黒をつけることは難しく、「そういう教育(手法)が適した(適していない)子もいる」とか「そういう状況もあるかもしれない」あたりで落ち着くことになる。そう、大半の教育論はその性質から完全な肯定も否定もできない。

じゃあどうするんだよ? と言いたくなるところで、研究者にできることは過去にどのような議論がなされてきたか・それの繰り返しになっていないかの指摘や過去政策の失敗例、他国事例などを建設的に議論していくべき、としている。そしてその議論のために以下の4点を意識すべき、と提案している:

平等を目指すのか自由を重んじるのか、どちらに軸を置くのかを自覚するということ、「同じ扱いという平等」では生まれの格差による教育格差を縮小することはできないということ(機会に恵まれない層に対する追加支援・処遇差がなければ拡大の一途を辿る)、受験というものは線引きする必要があるもので、誰かの成功の裏には必ず誰かが不幸になるしくみであること、対策を打ち立てるためには現状把握が肝要であること。

教育格差という問題提起に対して、具体的な提案はp288でようやく出てくる。分析可能なデータの収集と、教職課程において「教育格差」を必修とすること。

感情的になりますが

(学力がないために)苦労して読み進めてきた私の感想としては、提案それか……という感じになってしまった。もうずっと分析の話を聞かされてきたじゃん。みたいな。提案というのに、自己批判のための現状把握が必要ということばかり書かれているような気がする。なんとなく、この本の中にはたくさんの主張がある気がするのだけど、それを「だから、かくあれかし」のように目指すべき方針として言い切ってくれないところにすごくフラストレーションが溜まる。それに同意できるかどうかも、正しいかどうかも実践しなければわからないのだから、とにかくここまでの結果で得た持論をなにか表現してくれればいいのに、ここにおいて、「もっとデータを分析しよう」。私はもう疲れたよ。辛抱弱いのでね。

教職課程でその格差の把握を必須とすべしという提案においては、労働環境の是正などが最重要項であるという理解を示しつつ、金のかからない改善案だとして主張されている。でも、教職員に能力を求めれば求めるほど、それに見合う給与は上がるのではないのだろうか。薄給のまま、サービス業のようなこともこなせる研究者たれというのか? その国柄から多くの要素で格差のあるアメリカから学ぶべきことが多いというのは肯けるし、それを考えると格差への意識は人として当然の心構えであるという風にも理解できる。であれば「常識」の範疇ととらえて、やはりそれが付加価値ではないから給与を上げるべき特殊技能には値しない、のかもしれない。でもそれならそれを教職課程にのみ任せることはないし、その意識はすべての人が持つべきものなのでは? その理解を深めるための発展的内容や実践手法みたいなものを教職課程で扱うというのならわかるが。

データから学んで建設的な議論をしましょうというような提言がある割に、p272の以下の一節はちょっと嫌味すぎるし:

ほとんどの教育論には一理あり、完全に間違っていることはあまりない。だからこそ、自分の経験だけに基づいた思い込みで、いつまで経っても高尚な「理念」の正しさを主張することが可能だ。会話そのものが目的である雑談であればそれもよいだろうが、政策となると多くの人たちの未来に影響を与えることになるので、客観的なデータと研究知の蓄積に基づいた判断が望ましいことに異論のある人はいないだろう。

なんだろう。小説じゃないんだからさ。そこはそんなに飾らなくていいじゃないかと思ってしまった(あるいは、それらしく飾ってくれという方が適切なんだろうか)。

まあ、二つの提案を好意的にみると、改善のためにはコツコツやっていきましょうねっていうことなのかな。後書きタイトルも『未完のままの締め口上』となっているし、私としてはその通り不完全燃焼というか、ちょっと肩透かし感が強いですね。

多分自分が恵まれているから、受け入れられないこと

p280では失われた可能性、という話題が出てきます。何かって、「あり得たかもしれない未来」。もしも環境が違うものだったら……。私には、この考え方はすごく無意味なことのように思える。選択の全てが運命であることは、その通りだと私は思う。それが自己決定であるかどうかに関わらず。だからその運命は別に自己責任とも思わない。私がこんな風なのは概ね私のせいなのだけど、でもそれを誰が批判できようか?

けど、その「こんな風」というのがもっと深刻だったら、私は今とは真逆の意見なのかもしれない。自分では今の状態も深刻だと思っているけど、でも生きているし。生きていられるのは、自分が自分の状態を許容できていることの証左だ。優遇されたスタート地点に成り立っている私の人生は、きっと本当の苦痛というものを知らないのだろう。

つい先日、友人の結婚式・披露宴があって、有難いことに招待してもらえた。その友人夫婦は芸術の道を進んでいて、それは親がそういった仕事をしていたことで選んだ道だったという。そういった環境をうらやましいと思う人もそれなりにいると思う。例えば芸術に限らなくても、親が学者なので勉強が好きになったとか、芸能人一家なので二世タレントになれましたとか。自分にはない、羨ましい環境は無限にある。でも、その環境に置かれた時に、環境を最大限に活かせる保証はない。今だって、今ある環境を最大限に活かして生きているのかといえば、そうじゃないんだと思う。教育っていう人間の基盤を作るところとは残念ながらもう違うフェーズだけど、それでも自己研鑽とか向上という意味では、年齢関係なく挑戦できるという理解でいる。自発的にそうしないという選択をしているというだけで。

だって、いろいろ考えたけど、「あり得たかもしれない未来」を夢想するときって、多分嬉しい気分ではないだろうと思う。もしもあの時こんな指導を受けていたら価値観が違ったかも……って、それは今の自分の否定じゃないか。生き続けて新しいことを知るたびに「なんでもっと早く知ることができなかったんだろうな」みたいな後悔をするけど、だからって戻れるわけじゃない。算数に躓かなかった私なんて、私じゃないだろ。もしも算数を使いこなせていたら様々なところで人生が豊になったのかもしれないけど、だとしたらそいつは私じゃないんだよ。

私は私が好きではないのに、なんか自分の存在を肯定するかのような感じになってしまって、辛いっすね。