その属性がその場での役割に大きな意味を持たない時、個人の属性を意識したくない話
雑談
先日ナナシスの推しの誕生日で課金した日記を書いたのですが、その中でも触れた通り、やはり、公式の売り出し方と私の求める方向性に相違があるので、課金を卒業しようと思う次第です。これまでのこのタイトルへの課金総額はわかりませんが(Appleからの領収書メールを全部見ればわかるが)、方向性に対する自分本位な憎しみはあれど、お金を使ったことへの後悔はありません。私が最も恐れていることは、この卒業の決心が、今後何かのきっかけで瓦解してしまうことです。本当に、ヤマイ(推し)のイベントが始まった時に走らずにいられるのか? 映り込みを含むヤマイの新カードが実装されたときにガチャを回さずにいられるのか? その自信がないのです。私は、アプリ自体を放置していようと、ガチャを回すためだけに課金を行うことを厭わない人間です。頼むナナシス、早くサ終してくれ。私の弱さのために。(冗談です)
個人の属性を意識したくない話
私はconnpassというサービスを利用することがあります。connpassでは色々な分野の勉強会の告知が行われているので、それらに参加する目的で利用しています。今年に入ってからは(何件かに申し込んで)1つの勉強会に参加しました。参加する目的の大部分は、題材となる分野に興味があるので調査のとっかかりにしたいというものです。定期的にconnpass内を巡回する、或いは他のSNSなどで告知されたものから飛ぶなどして、興味のあるものを探します。題材や応募要項と日時・場所の都合を確認して、自分の中に意欲を感じた時に申し込みます。今日の日記では、この申し込みのときの話を書こうと思います。
先に書いた通りですが、物理的に参加する場合は、興味がある内容であるというだけでなく物理的な制約をクリアできるかどうかも条件になってきます。例えば私の場合は会社からそう遠くない場所で平日の19時開始以降なら大体行けるかもな、みたいな感じで考えます。connpassにはとてもたくさんの勉強会が登録されていますが、これらの条件があるため、そう頻繁に参加するというようなことにはなりません。それどころかむしろ、参加登録に到ること自体がかなりレアです。興味のある題材を見つけて気分が上がったあと、都合がつかなそうなのを見て肩を落とすようなこともしばしばあります。参加希望者が多いと先着や抽選となるので、申し込んだのに行けなかった、というようなこともあります。参加権を得たけれども都合がつかなくなってキャンセルする、ということもあります。なので行けると嬉しいし、実際に行けないことになるかもしれないとしても気になったところにはできる限り申し込んでおきたいというように思っています。
一言で勉強会といっても色々な形式のものがあるので、参加者に枠が設けられることがあります。単なる聴講者としての枠だけでなく、例えばその題材に関するLTをしてくれる人を募集したり、プロモーションとしてその勉強会の感想ブログの執筆者を募集していたりすることがあり、それぞれに枠が設けられます。基本的には聴くだけの人が多いはずなので、アクションを伴う参加枠はそれらに比べると倍率が低いと思われます。主催側にもイベント運営上の事情があるでしょうから、「キャンセルしない枠」のような枠が設けられているのを見かけることもあります。
そんな中で、時々こういう枠を見かけることがあります。
これを見た時、その題材に対する実際の参加意欲や自分の意思とは特に関係なく、色々なことが頭の中を巡っていきます(それが意思というものなのかもしれないが)。おそらく、私が女性であることに起因します。
枠が分かれているのを見て「一般枠を圧迫しないように、女性の私は女性枠で参加した方が良さそうだ」というような考えが一瞬よぎります。その気持ちは、実際の参加意欲とは本当に関係のないところで起きます。そのイベントそのものから切り離された、枠が別で用意されていることに対する真意を読もうとする思いが、無意識のうちに湧いてくるのです。
そしてそれを深く考えたのちに、悲しみか寂しさか、何かよくわからない気持ちが覗いてきます。「私はなぜ一般で申し込むことを遠慮しなければならないのか?」
そして私が自分の感情をコントロールできないために、その後には怒りがやってきます。誰が参加するか、こんなもの。
そしてブラウザを閉じる。
この枠に一体どういう意味があるのか、その真意が私にはわからないために、このように(↑感情の波)なります。一連の感情は一瞬で駆け抜けていくので、最終的に私には、当該のイベントに対して「興味を失った」という事実だけが残ります。このなんとも言語化し難い感情の起伏が実際はどうなっているのかを自分なりに振り返ると、上記のようなプロセスを経ているかな、という感触を得ました。
女性枠というものは上の画像の例に限ったことではなく何度か見かけたことがあるので、かなり一般的なルールだったり、スタンダードなものなのかもしれません。スマホゲームに訳のわからない課金の仕方をしているような人間である私の情緒がおかしいだけ、という可能性も大いにあります。
※ あと、画像の例だと女性とLGBT一緒なのもなんやねんという感じがしますが、ややこしいし自分の感情の中だけの話ではなくなってしまうのでここでは置いておきます。この日記では単に女性単体で枠が設けられているような場合と同一視して扱っています。
そして、大抵の場合、こういうものは善意で設けられていると考えられるでしょう。個人的にこういうことをわざわざ言うのは嫌で、今更そんなこともないんではないかと思います(思いたい?)が、「女性が少数派」であることへの配慮なのだと思います。「我々は女性を歓迎している」という意思表示だと思います。あるいは、多様性の確保の義務があるのかもしれません。アファーマティブアクションという言葉がありますが、そういうイメージに近いでしょうか? だって、他の誰がどういう考えを持っていようと、私に参加する権利さえある(参加を禁止されていない)のなら、歓迎されるまでもなく自分の興味のあるところに行くだけですから。けれど、実際に画像の申し込み人数を見る限り、一般枠に比べると女性枠の倍率は低く感じます。そしてもちろん、女性は一般枠への申し込みも、女性枠の申し込みも、どちらの権利も持っています。だから主催側からすれば単に「女性には男性よりも多くのチャンスを与えている」というだけの話なのだろうと思うのです。
私はなぜこんなに複雑な思いを抱えているのでしょうか。私は少なくともconnpassで行われるような勉強について、性別によって何か役割が変わるものだと思っていません。つまり、役割に性差がないと思われるような場所で、性別の枠を設けられることに違和感があるのだと思います。誰にでも門戸が開かれているものに対して、(私にとって)不可解な枠が設けられていることが、頭に引っかかるのかもしれません。
私は無学で海外のことをよく知りませんが、例えばアメリカでイベントが開催されたときに、
- 一般枠 100名
- アジア人枠 20名
のような募集はあり得るのでしょうか? そんな時、やはり私は一般枠に申し込まないべきでしょうか? いえ、主催者はこう言ってくれるかもしれません——「あなたには、このどちらにも応募する権利があります」。そうだとして、当事者はこの枠に負の感慨を抱かずにその措置を享受できると思いますか? そして当事者でない人は、このように考え込む当事者に対してどのような感情を持ちますか。「考えすぎだ」「優遇に感謝しこそすれ、勝手に落胆するとは贅沢だ」とか? 被害妄想が過ぎるでしょうか。こんなとき、一般枠120名での募集ではなぜだめなのか、考えたりしないでしょうか。
私には本当に答えが見つかりません。自分の感情に自分が寄り添ってやりたい気持ちは大いにあるのですが、どうすれば自分が楽になるのかちっともわからないのです。アファーマティブアクションの話も、私がこれを学ぶことを忌避しているために、自分で正確な理解ができているとは思えません。それでも例えば、 女性の立場が弱かった歴史的経緯に鑑みれば、今は女性の権利を強調するぐらいでなければ、女性にとっての失われていた時代を取り戻すことができない
というような話があったとして、私自身はその時代の実際の犠牲者ではない(はず)ためにその話に実感を得ることはないけれども、実際に苦しんでいたという人が上げた声であるならば、当然傾聴に値することであると思います。
というわけで、勉強会の女性枠というものは私に対し私自身がその制度を不可解に思う気持ち、しかしそれが善意からなる正義的な制度であること、そしてさらに私が普段意識していない(あるいは忌避している)歴史のことを鮮烈な情報として与えてきます。私はどうも、これらのことに感情をかき乱されてしまうようです。まずこの日記を書いていて異常に辛い。まあでも3つ目のことはちょっと今回とは若干関係ない気もするのですが、どうして配慮が発生したのかということに思いを馳せると、最終的にはそういったような話にまで考えが至ってしまったというわけです。
これから
ちゃんと学があれば心が乱れることもないんでしょうかね? この辺り、学ぼうとするだけでも心がしんどくなってしまいます。アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)とか、聞き齧った単語をなるべく調べるようにはしているのですが、そのたびに胸が切り裂かれそうな思いになります。だって、自分にとって都合の悪くない世界がほかの誰かにとっては都合が悪くなってしまうことなんて、考えたくないじゃないですか。そしてその気持ちが自分勝手で傲慢なんだろうなということを自覚させられるのが、辛いじゃないですか。自分が悪人だなんて、思いたくないじゃないですか。というわけで、辛くならずに(あるいは、辛くなっても)学びを得られる本とか何かあれば教えてください、@fymartym宛に。
次の日記更新は本の感想文でありたい。一応独ソ戦を読むつもりですが、全然関係ない日記になるかもしれません。どうも、情緒がおかしいので。